どこかの誰かの秘密基地

このブログはどうせフィクションです

社会的自殺

本当に私は性格が悪い。ちょっと痛いところ突かれたくらいでSNSにぶちまけて、年上に気を遣わせて、リプする気力もなく❤を押して、懲りもせずブログにぶちまける。

まぁ、ここはそういう所にしたかったから、許して。全力で開き直るから。嫌なら帰って、私を見下して嫌って、どこの誰とも知らない「私」を絶対悪にしといて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知らんよ。不快になっても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を分析するのが癖だ。この人はこう思うだろうというのが分かれば少しは生きやすくなるかと思って、小学校の頃から始めた。案外楽しくてどんな遊びよりも続いた。趣味の欄に人間観察と書いていた黒歴史もあるけど、それは置いておく。

 

それが染み付いて、何を見るにも『裏に存在する人間』を見るようになった。非科学的なものを見るのにも、自分勝手にねつ造をしてまで人間の温度を見い出す。このあいだ学校の課題で人間から天使になった女性の話を書いたら、先生が興味深そうにいろいろと聞いてきた。最初は特に気にもせず「先生のアンテナに引っかかったんだな」と思ってスルーしたが、ついさっき異常なのかもしれないと思った。宗教的な意味ではなく、もうちょっと根本的な所で。

 

 

私の興味・感情の根源は『人間』だ。何を見るにも『裏に存在する人間』の存在を前提に考えて、そこにある感情やら思考やらを考察して答えを出す。それが推測の域を出ないのは分かっているので、あまり表に出さない。間違っていても気は落とさない。むしろ余計に面白がる。頭の中でオナニーを延々としているようなものだ。

 

 

 

感情論とはまた違う、と言い張ってみる。物事を判断する上では、たとえそこにある感情が同情を誘うものでも、結果が悪ければ悪い。言い訳は理解しても結果は許さない。たまに言い訳も許せないことはあるけど、非人道的なこととかそういう類。

 

 

私は表に出ているものよりも『裏に存在する人間』に興味を示す。いわゆる『公平な目』で作品を見れない。だから作品を作った人間を見て避けたり惹かれたりする。しかしそれはタブーだ。正当に作品を評価できないということだから。批評家になるつもりはないので気にすることもないんだろうが、ある程度批評の目を養っておいた方が自分の作品を省みるときに役に立つと思う。まあ、それが出来ないからいつまで経っても成長しないんでしょうけど。

 

 

 

開き直ってもいいですか。

 

 

 

 

 

 

私の周りにいるのが人間に興味がない人たちばかりだというのもあるんだろうが、みんなの興味がないところが私の根源なのだ。みんなが「つまらないところ」だと切り捨てるところが私の根源なんだ。いま私が目指している場所は、私の根源が真っ向から否定される場所だ。

 

 

周りに合わせないのが芸術だと思っていた。最低限のモラルはあれど、それさえ守れば「表現の自由」に守られる、人の目なんてクソ食らえみたいなのが芸術だと思ってた。

 

 

間違ってたわ。

 

 

 

 

結局どんな場所でも周りに合わせなきゃ生きていけないんじゃん。表現の自由の前に人の目があるんじゃん。どこまで突き抜けたって人の目からは逃れられないんじゃん。あれ、すごく当たり前なこと言ってるな

 

 

 

 

 

結局さ、死ななきゃ自分になれないんだよ。

アイデンティティの確立って、よく言うよね。所詮そんなもの、『社会で主張できる自分』を作ることじゃないか。それを極限まで尖らせて武器にしてる人が芸術の道で生きている人で、どこかで折れる人は途中で道が途切れてて、途切れた先に飛び降りて死ぬか、来た道を戻って他の人と同じ道を歩くんだよ。一度休んで戻ってくる人もいるけど、そういう人って実はものすごく細い道をこっそり歩いて広い道に合流したってだけで、止まったわけでも戻ったわけでもないんだよ。受け入れてもらえるかはまた別。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ねえ、私の目の前で道が途切れてるんだけど。幻でも見てるのかな。