どこかの誰かの秘密基地

このブログはどうせフィクションです

のろま

小学校の頃、使っていた筆箱にマジックペンで落書きされた。隣に座っていた男子が授業中にやったことだ。それが母に見つかった。何度説明しても聞き入れてくれず、私は「自分の筆箱に落書きをするふざけた子ども」になった。

日頃の行いが悪かったのだ。周りができていることが私にはできなかった。幼稚園の頃からずっと。宿題は中学までろくに出さなかったし、クラス中から白い目で見られるなんてしょっちゅうだ。幼稚園のプールの裏で、当時流行っていた昼ドラの如く「雌豚」だの「のろま」だの言われた。幼児体型なだけなのに「デブ」と言われ、ドッジボールでミスをしただけで蹴られた。

見てますか。本当に雌豚になり、デブになり、のろまになりましたよ。

 

 

 

私は今まで、少なくとも2人のクラスメイトを傷つけている。

1人は転校してきた女子。支援学級に通っていて、パニックになるとすぐに泣きだす子だった。残酷にも彼女は当時の男子たちの遊び道具になり、他の女子たちはそれを遠巻きに見ていた。私はいじめから解放された爽快感に任せて男子を煽った。

もう1人は当時の親友。あまり目立たない子だったからか、陽キャの女子の悪口を言っていた。私は同意も反論もせずただ頷くだけ。それだけやっておけば良かったのに。人目のつかない所に追いやられたわけでもなく、掃除の時間にさらっと「あの子、私たちの悪口言ってない?」と聞かれただけなのだ。私はあの子を守れなかった。しかも陽キャになりたい一心で余罪をペラペラ喋った。

 

 

 

 

のろまはのろまらしく、誰とも関わらずに生きていけば良かったのだ。しかし中学で出会った不登校の子を助けようとした。自分は聖人だと思い込んで、他人の問題に首を突っ込み続け、そのままこんな歳になってしまった。あれだけのことをしたのにね。

 

 

 

 

9月から休学をすることになった。学校という枠組みに耐えられなくなり、あれだけ固執していたサークルも辞めた。休学したいと相談した身内全員に言われた。

「お前は一般企業には入れないからね」

そして今1人でこんなことをほざいている。

 

 

 

 

 

「甘えてるだけだ」と人は言う。そして「もっと誰かに頼れ」という。

じゃあどうすればいいんだ。こんな社会不適合者を生み出したのは他でもないお前らだ。虐げるならずっと虐げていればいいものを、変に庇って甘やかすからこうなったのだ。だから頼らずに生きようとしているんじゃないか。それでも縛るのか。無理だと思うなら放って野垂れ死にさせとけばいいものを、「お前の為に生きている」だの、「成人式が楽しみだ」だの、都合のいいことばかり言うからこんなになっても生きているのだ。

私のことを想うなら、この場で殺してくれ。

諦めないのが悪かった。もう誰にも頼らず、1人で生きて、1人で死ぬ覚悟を決めていれば誰も傷つけなかった。単純な話だ。

どこかで分かってはいたのだ。好きだった彼の今までの行動は私だけに向けられていないこと。よく話す男友達が話を聞いてくれるのは、お互いが恋愛対象でないことが前提であること。中学の時に付き合った彼女を大事にしなかったツケが今きていること。なによりも、

自分がいなくても代わりがいること。

どれだけ私が「寂しい」と叫んでも人々は歩いている。車は信号に従い、野良猫は餌を求めて人間に擦り寄る。世界は容赦なく回っている。

私が生きているのはそういう場所だった。ちゃんと気付いてたはずなのに、忘れてしまったのはいつだろう。

恋は盲目、なんてよく言ったものだ。都合の悪いことを全て吹き飛ばしてしまう。醜い顔も、躰も、心も。そのまま飛んでいってしまえば良かった。

空っぽなまま今日も眠る。ずっと空っぽなままで、仄暗い明日に呑まれる。

それでいい。もう疲れた。

いくじなし

今や病んだときの隠れ家になってしまった学食2階、いつものカウンター席に荷物を置き、1杯80円のココアを目当てに自販機へ向かった。


ココアが出てくるまで窓の外を眺めようと視線を動かすと、「体調が悪いので今日の授業休みます」と言っていたはずの同級生と目が合った。私も同じことをしているので咎める気は更々なかったが、君もこうなってしまったかと思いつつココアを手に取った。


席に戻る途中,サークルの先輩を見かけた。いつもなら「お疲れさまです」とか声をかけるのだが足が向かない。
あれだけの精神的自滅に巻き込んでしまった手前、謝罪の1つや2つしなければいけないのだ。なのに息ができなかった。どうやら身体さえもクズになったらしい。
それでも人間としての尊厳は保とうと「このココアを飲みきったら先輩のところへ行こう」と決めて、湯気が立っている紙コップに口をつけた。半分くらいまで飲み終わった頃、先輩がいた席には別の学生が座っていた。


もう何もかもどん詰まりだ。こんな奴に居場所を求める資格はない。
思い詰めた私を肯定するかのように、3限の終わりを告げるチャイムが室内に響いた。

社会的自殺

本当に私は性格が悪い。ちょっと痛いところ突かれたくらいでSNSにぶちまけて、年上に気を遣わせて、リプする気力もなく❤を押して、懲りもせずブログにぶちまける。

まぁ、ここはそういう所にしたかったから、許して。全力で開き直るから。嫌なら帰って、私を見下して嫌って、どこの誰とも知らない「私」を絶対悪にしといて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知らんよ。不快になっても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を分析するのが癖だ。この人はこう思うだろうというのが分かれば少しは生きやすくなるかと思って、小学校の頃から始めた。案外楽しくてどんな遊びよりも続いた。趣味の欄に人間観察と書いていた黒歴史もあるけど、それは置いておく。

 

それが染み付いて、何を見るにも『裏に存在する人間』を見るようになった。非科学的なものを見るのにも、自分勝手にねつ造をしてまで人間の温度を見い出す。このあいだ学校の課題で人間から天使になった女性の話を書いたら、先生が興味深そうにいろいろと聞いてきた。最初は特に気にもせず「先生のアンテナに引っかかったんだな」と思ってスルーしたが、ついさっき異常なのかもしれないと思った。宗教的な意味ではなく、もうちょっと根本的な所で。

 

 

私の興味・感情の根源は『人間』だ。何を見るにも『裏に存在する人間』の存在を前提に考えて、そこにある感情やら思考やらを考察して答えを出す。それが推測の域を出ないのは分かっているので、あまり表に出さない。間違っていても気は落とさない。むしろ余計に面白がる。頭の中でオナニーを延々としているようなものだ。

 

 

 

感情論とはまた違う、と言い張ってみる。物事を判断する上では、たとえそこにある感情が同情を誘うものでも、結果が悪ければ悪い。言い訳は理解しても結果は許さない。たまに言い訳も許せないことはあるけど、非人道的なこととかそういう類。

 

 

私は表に出ているものよりも『裏に存在する人間』に興味を示す。いわゆる『公平な目』で作品を見れない。だから作品を作った人間を見て避けたり惹かれたりする。しかしそれはタブーだ。正当に作品を評価できないということだから。批評家になるつもりはないので気にすることもないんだろうが、ある程度批評の目を養っておいた方が自分の作品を省みるときに役に立つと思う。まあ、それが出来ないからいつまで経っても成長しないんでしょうけど。

 

 

 

開き直ってもいいですか。

 

 

 

 

 

 

私の周りにいるのが人間に興味がない人たちばかりだというのもあるんだろうが、みんなの興味がないところが私の根源なのだ。みんなが「つまらないところ」だと切り捨てるところが私の根源なんだ。いま私が目指している場所は、私の根源が真っ向から否定される場所だ。

 

 

周りに合わせないのが芸術だと思っていた。最低限のモラルはあれど、それさえ守れば「表現の自由」に守られる、人の目なんてクソ食らえみたいなのが芸術だと思ってた。

 

 

間違ってたわ。

 

 

 

 

結局どんな場所でも周りに合わせなきゃ生きていけないんじゃん。表現の自由の前に人の目があるんじゃん。どこまで突き抜けたって人の目からは逃れられないんじゃん。あれ、すごく当たり前なこと言ってるな

 

 

 

 

 

結局さ、死ななきゃ自分になれないんだよ。

アイデンティティの確立って、よく言うよね。所詮そんなもの、『社会で主張できる自分』を作ることじゃないか。それを極限まで尖らせて武器にしてる人が芸術の道で生きている人で、どこかで折れる人は途中で道が途切れてて、途切れた先に飛び降りて死ぬか、来た道を戻って他の人と同じ道を歩くんだよ。一度休んで戻ってくる人もいるけど、そういう人って実はものすごく細い道をこっそり歩いて広い道に合流したってだけで、止まったわけでも戻ったわけでもないんだよ。受け入れてもらえるかはまた別。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ねえ、私の目の前で道が途切れてるんだけど。幻でも見てるのかな。

なさけない

「とりあえず大学入りました」とか、そんなことを言うつもりはない。中学時代から決めていたところに推薦で滑り込み、それなりの生活をさせてもらい、いい人に恵まれ、楽しいと思うことだって見つけている。

それでも積もるものがあるんだから私はわがままだ。

 

 

 

 

 

 

物を書く人間に病んでないやつはいないって友人は言っていたけど、今年の夏の結晶である私たちの本には、病んでる人間が書いたとは思えないほど清涼な文章ばかりが並んでいる。まぁ何人か人は死んでいるけど。

天使が書いた『愛されキャラになれるなら死んでもいい』という一文が、私の頭を黒いもので染めている。自分がいかに微笑ましいと思われているか全く知らないのだ。せめて彼女にあざとさがあれば、少しはこの黒いものも軽くなったんだろうか。

…いや、あざとくても可愛いわ。うん。

 

 

 

 

 

 

 

何をこんなに悩んでいるんだろう、と思う。他人事みたいに自分のことを語るのは私の癖だが、年々それがひどくなっている。他人事が過ぎて根本にある原因を見失った。うわべだけならすぐに取り出してネタにするが、奥の方にあるものはもう誰にも分からない。

手がつけられなくなって放置して、また次の問題が溜まっていって、重さで心が歪む。それを続けてかれこれ6年。こんなにも歪んだ19歳が生まれました。嫁にしなくても構わないから、そばにいてください。私に人肌という名の麻薬をください。ビッチなのは分かってる。

 

 

 

 

 

 

そう簡単に麻薬が手に入るはずもないから、今日も情けない声をあげて生きていくんだろうな。きっと。